何故ネットでは承認欲求が叩かれるのか?

ネットスラング化した「承認欲求


SNSでは「承認欲求」という言葉が悪口として使われています。


承認欲求という言葉は元々、アメリカの心理学者アブラハム・マズローが作った言葉で、彼は人間の基本的欲求を低次(優先度の低い順)から「生理欲求」「安全欲求」「所属欲求」「承認欲求」「自己実現欲求」に分類しました。

そしてマズローは承認欲求を「他者から認められたい、尊重されたいとする欲求」とし、これを「人間の基本的な心理的欲求である」と定義しました。


ところが、今のインターネットでは「承認欲求」が「他者から認められたいが為に必死になってる痛い奴」的なレッテルとして機能しています。

 

どうして人間の基本的性質(と定義された言葉)が嘲笑の対象となる要素になってしまったのか?
この理由として、よく使われる理論がsyamu_gameさんが提唱した「ほならね理論」です。

 

「ほならね理論」とは?

「ほんでーまあ…『のびハザ怖くない』の最終パートでね、ちょっとコメントがあったんですけども、『サムネがつまらない』というコメントがありました。
いやーほならね、自分が作ってみろって話でしょ?そう私はそう言いたいですけどね。
こっちは、こっちはみんなを楽しませるために動画のサムネを…作っているわけでして、 やっぱり、前はちょっとサムネシンプルだったのですが、 いや…ちょっとサムネやっぱ凝ったサムネがいいかなーと思って まあサムネ作り始めたわけですけども。
そんな、『サムネつまんない』とか言われたら、じゃあお前が作れって話でしょ、だと思いますけどね?ええ。
結構ー…サムネ作るのは大変だと思いますよ。サムネの構図、から考えなあかんし。
『つまんない』と言うんだったら自分が作ってみろ!っていう話でしょ?私はそう言いたい。うん」~syamu_game~

 

インターネットは双方向のメディアです。
ですから、表現者を批判者が手軽に批判出来る反面、表現者もまた批判者を批判することが可能になりました。
そのため今ではSNS上のあちこちで、「下手糞!」「つまらん!」と批判された表現者が「ほならね、お前が上手くて面白いものを見せてみろ」と反論する場面が多く見られます。

 

この「ほならね」を使われた批判者は相手より技量が劣るので、当然「上手くて面白いもの」を提示出来るはずもなく、表現に対する批判を封じられてしまいます。
そのため批判者は表現の内容ではなく「表現する行為そのもの」ないし「表現したいという欲求そのもの」を批判しようとします。
そこで「承認欲求」が相手を「痛い奴」だと小バカにするニュアンスで使われるようになった…というのが「ほならね理論」です。

 

しかし、これは本当に正しいのでしょうか?

 

実はこの「ほならね理論」は提唱者のsyamu_gameさん自身が後に誤りであったと撤回しています。

 

危険思想「無産の嫉妬なんだよね・・」

この「ほならね理論」には重大な見落としが二つあります。

 

一つ目は「客観的評価がどうであれ、自分だけでも実力があると信じていれば、如何なる批判も全て『ほならね』で封じる事が可能である」ことです。

 

例え実際に批判者が表現者より「上手くて面白いもの」を提示し、大多数の人も「批判者の表現のほうが上手くて面白い」と言ったとしても、表現者がその価値を認めさえしなければ「やっぱり俺より上手くて面白いものなんて出来ないでしょ」と言えてしまいます。


「ほならね理論」を使えば表現者は、どんなに実際の技量や実力が低くても「裸の王様」になれてしまうのです。

 

二つ目は「自分より上手いand/or面白い表現が出来ない方の批判が無意味であるなら、賞賛もまた無意味になってしまう」ことです。


「特定の立場の人間の意見にのみ価値がある」とするスタンスは否定しませんが、少なくとも不特定多数に表現を発信し「他者から認められたい、尊重されたいとする欲求」を持ちながらの「ほならね理論」は矛盾を孕みます。
従って「ほならね理論」の使い手は、単に「都合の良い事は耳に入れ、嫌な事は聞きたくないだけのダブルスタンダードである」と言わざるを得ないのです。

 

確かに「上手くて面白いもの」を表現出来ない故に「承認欲求」自体を批判する、いわば「無産の嫉妬なんだよね・・」に該当する人もいるかもしれませんが、批判者を無条件に「無産の嫉妬」扱いする事に何ら生産的な意義はありません。
(因みに、ここら辺の事情は「アンチは本当に嫉妬でアンチコメするのか?」記事にて考察しています)


「承認欲求」の言葉を作ったマズローもまた自己批判を放棄した「他者からの低い尊重」に留まり続ける危険性を説いています。
何故なら「他者からの低い尊重」を得る一番の方法は「他者の望む言動」をとることであり、それは自己の主体性を著しく蝕むからです。

 

実際にマズローの警鐘は現実のものとなりつつあり、今の日本では「主体性」を失い「承認」という刺激を求めるだけの機械と化した方々の暴走が社会問題化しつつあります。

 

ネットは承認欲求を暴走させる

最近YouTuberやニコ生主、キャス主等の「配信者」の犯罪と逮捕が相次いでいます。
彼等を全員詳しく調べたわけではありませんが、彼等はその大半が「ほならね理論」の使い手です。
批判者の意見を「無産の嫉妬なんだよね・・」で済ませてきた方々です。

 

何故彼等は違法行為に手を染めてまでPV数を稼ぐ…つまり目立とうとしたのかと言いますと、それは「承認欲求」故に他なりません。
(逮捕者の中には配信で金銭を得ていた方もいますが、金銭が絡まない配信で逮捕された方もいます)


しかし、何故ネットだと承認要求が膨れ上がり、人間を過激な言動へと向かわせてしまうのか?

 

私はこの原因が「ネット空間において得る不特定多数からの承認は、生活空間において得る安定した人間関係からの承認と全く性質が異なるからだ」と考えています。

 

私がコスプレを始めて実感した事は、ネットでの承認は(私の力不足という側面を否定出来ないにしても)不安定であり、承認が得られる時は物凄く得られますが、得られない時はさっぱり得られないということです。


こうした不安定な承認の波は欠乏感を生み出し、欠乏感は射幸心を煽り、射幸心は不特定多数の関心を得るべく言動を過激化させるように誘致します。


しかしながら「不特定多数の承認を得る最適解」は、往々にして既に承認を得ている自身の偏った周辺事例から導かれますので、逆に不特定多数の人間にとって理解不能な捻じ曲がったモノになりがちです。
逮捕された「配信者」の言動を省みても、その配信者のキャラや世界観を知らなければ「どうしてこんな事を?何処にその言動を取る合理性や必要性が?」と戸惑うものばかりです。

 

このモヤモヤを綺麗に取っ払い、同時に「自身の理解が及ばないand/or価値を見出せない不可解な言動をとる方」へ貼るレッテルこそが、ネットスラングとしての「承認欲求」に他ならないのです。

 

承認欲求そのものは悪ではないが…


このようにネットでは承認欲求の負の側面や暴走が容易に目に入りますが、「他人に認められたい」という欲求そのものは人間を成長させる重要なモチベーションの源です。
ですから、承認欲求を獲得する手法の歪さを非難するのはともかく、承認欲求そのものを非難するのは、「人間が成長する気力の一要素」を否定しているようなものです。

 

しかしながら、承認欲求という言葉は便利過ぎました。

 

自分が不快and/or理解出来ない表現を発する方の行動原理に感じる「不気味さ」を、全て承認欲求という言葉で片付けてしまえるからです。


本来、人の行動原理の機微は承認欲求という言葉の枠組みに納まるものではありませんが、とりあえず「承認欲求」という言葉を使えば、大体の人間の行動原理を理解出来た気になれてしまいます。
そして、この思考の短縮化&効率化は、皮肉にもネットを「承認欲求を非難することで、容易に承認が得られる場」にしてしまいました。

 

事実アレなコスプレイヤー達の度が過ぎた承認欲求を揶揄し、嘲笑するTwitterアカウントが1年足らずで5万人ものフォロワーを獲得出来てしまいます。(是非フォローして下さい!)

 

今日のネット社会で「承認欲求」という言葉は、誰かの非難、不快さや不気味さの払拭、思考停止、ネット上の処世術、そして「承認」の獲得に使えるマジックワードなのです。
承認欲求が叩かれる理由は、こうしたネットにおける「承認欲求」という言葉の万能性にこそあると私は考えます。

 

終わりに


「世界中の不特定多数に対して、リアルタイムに双方向のコミュニュケーションを図れる」なんて環境は、間違いなく人類史において類例のない環境です。


この環境下で私達は自身や他人の「承認欲求」と、どう付き合えばいいのか?に対する明確な答えはまだ用意されていません。


失敗例が多々出ていますが、もしかしたら「ほならね理論」を使い、批判を一切受け付けない態度が正解の可能性だってあります。
いずれにせよ、承認欲求は人を惑わせ、転ばせ、破滅へ導いたりもしますが、基本的には人の成長を促進し、明日への活力を生み出す源です。

 

 そのため私は沢山の方々が承認欲求を捨てる未来ではなく、承認欲求と上手に付き合い自己成長を重ねていく未来の到来を願っています。

アンチは本当に嫉妬でアンチコメしてるのか?

ネットで批判を浴びる方はよく「俺を批判する"アンチ"は俺に嫉妬してるから批判してくるのだ!」的な開き直りをすることがあります。

 

アンチは色々な場所で発生し、時には「粘着」とも評されるほど執拗に対象に対して攻撃を加えようとします。
何故アンチは本来嫌いなはずの対象に、積極的に関わろうとし、嫌悪対象にある種の情熱さえ抱いてしまうのか?

 

その理由について、よく語られるのがsyamu_gameさんの提唱する「アンチは嫉妬でアンチコメする」理論です。

アンチは嫌悪対象に実は羨望の感情を抱いており、自身が劣等であるが故に羨望は嫉妬へと変わり、対象への攻撃に繋がってしまうという理論です。

 

しかし、彼等が批判を浴びるのは本当に「嫉妬されてるから」なのでしょうか?

 

ここではレオン・フェスティンガーが提唱した「認知的不協和」という言葉をポイントにコレを考えていきたいと思います。

 

「認知不協和」とは

認知不協和とは自分の中で矛盾する認知が存在し、自分の築いてきた世界観が脅かされることで生まれる感情です。

自身にもたらされた新しい情報が、築いてきた信念や行動などと矛盾する場合、その人の精神には非常に不快な感情が生まれます。

 

この話でよく引き合いに出されるのがイソップ童話の「すっぱい葡萄」です。

 

狐が美味しそうな葡萄を見つけ、食べようとして跳ね上がるが高いところにあるので届かない。

何度跳んでも届かないので、狐には「欲しいのに取りに行けない」という認知の矛盾が生じ不愉快な気分になってしまいます。

そこで狐は「あの葡萄は酸っぱい。私は食べたくなんかない」と自分に言い聞かせることでコノ認知不協和を解消するという話です。

 

このような不快感は矛盾が強ければ強いほど、前提となる信念や想いが強ければ強いほどに強烈なものになります。


アンチの行動原理


アンチと呼ばれる方達は非常な情熱をもってして嫌悪対象に粘着することがあります。

「嫌なら見るな」「スルーしろ」といくら周りが言ったところで聞きません。

 

コレを認知的不協和から考えてみます。

 

大勢の人間に絶賛され、好評価を受けてる作品があったとします。

ところがアンチは、その作品が面白いと思えなかった。

しかし周りの人間はその作品を「嗚呼面白い!」と持ち上げると、ここに認知不協和が生じます。

 

ここで矛盾を「自分には合わなかっただけだな」で解消できなかった場合、人間は具体的な行動に出ます。

 

例えば「この作品はつまらない」と思う人同士で悪口や問題点を言い合うことで認知の正しさを確認し「自身の世界観を守ろう」としたり、「この作品を面白いと思うなんてお前らは馬鹿だ!」と「自身の世界観を他者に共有させよう」とします。

 

こうしてアンチは誕生するのです。

 

アンチは認知不協和を解消したい方々

ここで「アンチは嫉妬でアンチコメする」理論を考えてみましょう。

 

アンチのついている人物や作品等には一見嫉妬の対象と成り得るモノが無いような場合があります。

この時、彼等アンチはそれでも対象に羨望を抱き、その裏返しである嫉妬でアンチ対象を叩いているか?と言うと、やはり一概にそうとは言えません。

 

例えばコスプレイヤーが「私は一般人じゃないから~」と有名人であるが如き振る舞いをする、歌い手が「俺は歌い手に魂かけてる」と熱弁する、絵描きが「絵描きが絵描きとしか仲良くしないのは…」と語り始める、メンヘラが「私はこれだけ#お薬モグモグした」と病んでるアピールをする。

 

こういった言動を普通の人間がやろうとするでしょうか?

 

これらの言動はコスプレイヤー歌い手絵描きメンヘラである事をステータスと思わない方にとって、あまりに常人の認知とはかけ離れた異様な振る舞いであり、その世界観と矛盾するものと言えます。

 

彼等の言動により強烈な認知不協和が発生した方がいてもおかしくはありません。

 

その強烈な認知不協和を解消すべく、アンチは彼等を晒したり、悪口を言ったりして必要以上に貶めたりしているのです。


アンチに叩かれる方とは


 私個人の見解としては「アンチにアンチコメされる方」の大多数は「己の周囲にのみ通用する世界観を普遍的な世界観であると勘違いし、ソノ文脈を共有しない空間においては『ただの痛い方』になってるのに気付かない方」という印象です。

 

つまり「アンチは嫉妬でアンチコメする」もまた、「自身は賞賛されるべき人間である」という世界観と矛盾する「批判に晒されている」という現実によって生じる認知不協和を解消する手段の一つであると言えるでしょう。

何故クリエイターは搾取され続けるのか?

Twitterでは、こんなツィートが定期的にバズります。


「ある人or団体に『○○を××円で作ってくれない?』と依頼された。○○を作るのにどれくれいの労力やコストがかかるのか、まるで理解してない!○○を作るのはこんなに大変!もっとクリエイターの事情を知り、労力やコストに見合ったお金を出して欲しい!」


要するに「生産側の労力やコストを理解せず、安く買い叩こうとする悪い奴がいる!」というバッシングです。
この手の主張は最終的に「発注and/or消費側は、生産者側の人間に敬意を払い、労力やコスト相応の対価を払え」という風に結論されます。


しかし、これは本当に正しいのでしょうか?


そもそも発注and/or消費側の人間は、本当に作品生産に必要な労力やコストを理解してないから、作品を安く買い叩こうとするのでしょうか?


そうであれば、何故これほど「クリエイターには労力やコスト相応の対価を!」というツィートがバズり、ネット民の常識と言えるほどコノ価値観が浸透してもクリエイターは安く買い叩かれ続けるのでしょうか?


これは、自称クリエイターの方々が根本的に以下の点を勘違いしてるからに他なりません。

 

発注/消費側の人間は作品の労力やコストに金を払ってるわけではない!

 

例えば一万円札の生産にかかるコストは22円です。
ですが、一万円札は日本国により「これは一万円の価値があり、一万円相当の商品と交換出来るチケット」であることが保障されており、その価値を皆が認めることで一万円札には一万円相当の価値が生まれています。


一万円札の価値を担保するモノは紙代、インク代、印刷技術…etcといった労力やコストではありません。


極端な話、ソレが硬貨であれ貝であれ日本国が「これは一万円の価値があり、一万円相当の商品と交換出来るチケット」であることを保証すれば、それは労力やコストに関係なく一万円相当の価値を持つのです。


つまり発注and/or消費側は、そのモノがもたらす「価値」にお金を払っているのであり、そのモノの労力やコストなど知ったことではありません…特にクリエイティブが要求される市場では。

 

労力やコストに対する対価はあって然るべきなのか?

 

クリエイティブ業界では、どうしても「労力やコスト」よりモノ自体の「需要」が商品の価値を決定することになりがちです。


理由は簡単「作品には手間暇コストをかければいいってものじゃないから」です。


例えば一日で描かれた絵と、一週間で描かれた絵。
「クリエイターには労力やコスト相応の対価を払え」という主張に基づけば、前者の絵と比べ後者の絵には7倍の値段がつくはずです。


しかし実際に絵の価値を決めるのは、単純に需要…それを欲しいと思う人がどれ程いるのか?それに人は何円まで出せるのか?…です。


「この絵には一週間の労力やコストがかかってるのだから、需要に関係なく一日で描かれた絵の7倍の価値を持っている」なんて主張は通りません。


クリエイターが労力やコスト相応の対価を得られないのは、単に自らが「労力やコストの割に合わない需要の作品を生み出してるから」に過ぎないのです。

(作品によってはエンジニア的な作業が必要になり、それを工数換算などで見積もりを立てる場合もありますが…)

 

薄い本が薄いのに1000円で売れる理由

 

「単行本は200ページで400円なのに、薄い本は薄いのに値段が高過ぎる!と値切られた。お前、薄い本にどれぐらい労力やコストがかかるのか知ってるのかよw」

上記みたいな言説も定期的にバズるツィートです。

私も同人活動してるので多少は薄い本を出すための労力やコストが分かります。
少量生産故、一冊の製造コストが商業漫画より高くなってしまう事は承知しています。


しかしながら、それを踏まえても200ページ描く商業作家の労力やコストは、薄い本を20ページ前後を描く同人家の労力やコストとは比べものになりません。


薄い本…所謂個人ないし少数のメンバーで作成する同人誌は、商業漫画と比べると明らかに労力やコストのわりに値段(価値設定)が高すぎると言わざるを得ません。


それでも薄い本が売れ、1000円の価値が認められるのは消費者の「俺はこの作品が欲しい!1000円出してでも欲しい!」という需要を満たしているからなのです。
消費者は「薄い本作るのに、これだけの労力やコストがかかってるだろうから」的な観点で、購入する作品を選んでいるわけでは決してありません。


純粋に「欲しい作品が、自分の出してもいいと思える値段で売っていた」それだけの話です。

(もっとも同人市場は消費者の「欲しい!」という需要以外に「応援」「固定ファン」「リアルでの付き合い」「同じクリエイター側の人間からの祝儀」的な需要も入りますが…)


如何に労力やコストがかかっていない作品でも、そこに「欲しい!」という人が一定数いるのならば、ソレは需要に見合った価値を持つのです。

 

そもそもクリエイターは搾取されているのか?

 

確かに一部の業者や個人は、クリエイターの無知(自らの作品の需要を知らない)に付け込み、不当な値段で作品を買い叩くこともあります。


しかし労力やコストは作品の価値を担保しないので、ソレに対する「労力やコストがコレだけかかっているから相応の対価を払え!」という言説は反撃として成立しません。
上記の通り作品の市場価値は、純粋に「需要」により決定されるからです。


ですので、そのような悪質に作品を買い叩こうとする方には、労力やコスト等という概念を持ち込まず「自分の作品にはこれだけの需要と価値があるぞ!」と反撃すればいいのです。

 


クリエイターは「労力やコストが作品の価値を決定する」と思ってる限り、主観の上では延々と搾取され続けることになるでしょう。