アンチは本当に嫉妬でアンチコメしてるのか?

ネットで批判を浴びる方はよく「俺を批判する"アンチ"は俺に嫉妬してるから批判してくるのだ!」的な開き直りをすることがあります。

 

アンチは色々な場所で発生し、時には「粘着」とも評されるほど執拗に対象に対して攻撃を加えようとします。
何故アンチは本来嫌いなはずの対象に、積極的に関わろうとし、嫌悪対象にある種の情熱さえ抱いてしまうのか?

 

その理由について、よく語られるのがsyamu_gameさんの提唱する「アンチは嫉妬でアンチコメする」理論です。

アンチは嫌悪対象に実は羨望の感情を抱いており、自身が劣等であるが故に羨望は嫉妬へと変わり、対象への攻撃に繋がってしまうという理論です。

 

しかし、彼等が批判を浴びるのは本当に「嫉妬されてるから」なのでしょうか?

 

ここではレオン・フェスティンガーが提唱した「認知的不協和」という言葉をポイントにコレを考えていきたいと思います。

 

「認知不協和」とは

認知不協和とは自分の中で矛盾する認知が存在し、自分の築いてきた世界観が脅かされることで生まれる感情です。

自身にもたらされた新しい情報が、築いてきた信念や行動などと矛盾する場合、その人の精神には非常に不快な感情が生まれます。

 

この話でよく引き合いに出されるのがイソップ童話の「すっぱい葡萄」です。

 

狐が美味しそうな葡萄を見つけ、食べようとして跳ね上がるが高いところにあるので届かない。

何度跳んでも届かないので、狐には「欲しいのに取りに行けない」という認知の矛盾が生じ不愉快な気分になってしまいます。

そこで狐は「あの葡萄は酸っぱい。私は食べたくなんかない」と自分に言い聞かせることでコノ認知不協和を解消するという話です。

 

このような不快感は矛盾が強ければ強いほど、前提となる信念や想いが強ければ強いほどに強烈なものになります。


アンチの行動原理


アンチと呼ばれる方達は非常な情熱をもってして嫌悪対象に粘着することがあります。

「嫌なら見るな」「スルーしろ」といくら周りが言ったところで聞きません。

 

コレを認知的不協和から考えてみます。

 

大勢の人間に絶賛され、好評価を受けてる作品があったとします。

ところがアンチは、その作品が面白いと思えなかった。

しかし周りの人間はその作品を「嗚呼面白い!」と持ち上げると、ここに認知不協和が生じます。

 

ここで矛盾を「自分には合わなかっただけだな」で解消できなかった場合、人間は具体的な行動に出ます。

 

例えば「この作品はつまらない」と思う人同士で悪口や問題点を言い合うことで認知の正しさを確認し「自身の世界観を守ろう」としたり、「この作品を面白いと思うなんてお前らは馬鹿だ!」と「自身の世界観を他者に共有させよう」とします。

 

こうしてアンチは誕生するのです。

 

アンチは認知不協和を解消したい方々

ここで「アンチは嫉妬でアンチコメする」理論を考えてみましょう。

 

アンチのついている人物や作品等には一見嫉妬の対象と成り得るモノが無いような場合があります。

この時、彼等アンチはそれでも対象に羨望を抱き、その裏返しである嫉妬でアンチ対象を叩いているか?と言うと、やはり一概にそうとは言えません。

 

例えばコスプレイヤーが「私は一般人じゃないから~」と有名人であるが如き振る舞いをする、歌い手が「俺は歌い手に魂かけてる」と熱弁する、絵描きが「絵描きが絵描きとしか仲良くしないのは…」と語り始める、メンヘラが「私はこれだけ#お薬モグモグした」と病んでるアピールをする。

 

こういった言動を普通の人間がやろうとするでしょうか?

 

これらの言動はコスプレイヤー歌い手絵描きメンヘラである事をステータスと思わない方にとって、あまりに常人の認知とはかけ離れた異様な振る舞いであり、その世界観と矛盾するものと言えます。

 

彼等の言動により強烈な認知不協和が発生した方がいてもおかしくはありません。

 

その強烈な認知不協和を解消すべく、アンチは彼等を晒したり、悪口を言ったりして必要以上に貶めたりしているのです。


アンチに叩かれる方とは


 私個人の見解としては「アンチにアンチコメされる方」の大多数は「己の周囲にのみ通用する世界観を普遍的な世界観であると勘違いし、ソノ文脈を共有しない空間においては『ただの痛い方』になってるのに気付かない方」という印象です。

 

つまり「アンチは嫉妬でアンチコメする」もまた、「自身は賞賛されるべき人間である」という世界観と矛盾する「批判に晒されている」という現実によって生じる認知不協和を解消する手段の一つであると言えるでしょう。